『光の帝国』『蒲公英草紙』『エンド・ゲーム』
集英社です。恩田陸です。
常野一族をめぐる連作です。光は連作短編、蒲公英とエンドは長編。
どれも面白いです。『光の帝国』が一番すき。
常野一族のパスティーシュがあるはずだと思うの!後で探してみよう。
『光の帝国』の登場人物の話が読みたいわけではなく(いやそれも読みたいけども)、「常野一族」という設定を借りた、面白い能力のお話が読みたいので、つまり恩田さんが書いてくれればそれを読んだらいいんですが(笑)。
早く読みたいから誰か書いてないかなと思って。
一冊目の『光の帝国』が出たのは1997年。古びないのがすごいなあ。
光は文庫を買い直したので、あとがきが読めました。
面白い筈だと思いました。
恩田陸はもともと、かっきり解かれない、きっちり終わらない、そこが気持ち悪くて大好きな作家さんです。ぶよぶよというかぼわぼわというか、そういうものの一部分だけ見えた感じがするの。くらげに火吹き棒突っ込んで覗いてる感じ?
…えーと。
設定された謎がつまんないとか、いくら謎が魅力的でも結局解決してないとか、終わり方が半端だとかいう話は嫌いなんですが、恩田陸は大好き。
上手だからかしら。結局は。
気持ち悪いのが気持ちいい。なんかこう、ぞわぞわするの。
それで、『エンド・ゲーム』のオビが恩田陸にぴったりと思いました。
「終わりの始まり」
うまい。
面白いので、読んでください。なんか思いついたら書いてください。
誰か。
俳諧を一生懸命お勉強したことがあります。そのときの先生という人が、「真にオリジナルなものはない」という主義の人でした。
結構長いことその先生のそばにいたので、感化されました。
俳諧は、五七五の発句に、七七の脇句をつけ、それに五七五をつけ、と、三十七とか百とかまで続けてイメージの移り変わりを楽しむという遊びです。連句ともいいます。
私は連句の解釈がものすごく苦手で、やりたくなかったので、一人の俳諧師の発句だけ集めて読んでいました。連想とか飛躍とかそのものは好きなんですけども、そこに裏打ちを必要とされると途端にたじたじなのです(笑)。
俳諧の発句というのは、それだけ読んでも全然面白くないし、そもそも意味がわかりません。
十七音にできる限りの情報を盛り込むために、作り手も、読み手が当然、先行する作品を知っていて鑑賞するという態度で作るので、作品を通して作者と鑑賞者がつながるためには、先行作品の存在が不可欠です。
どこかにひとつ石が置かれると、誰かが周りに波紋を作り、また違う誰かがそれに輪をかけて波紋を広げ、あちらの小石の波紋と触れる部分があり、こちらの大岩の波紋と重なる部分があり、そんな風にしてしか読めないんです。
「しか」なんて云うと否定的ですが、私はそこが面白くて好きでした。誰とも触れ合わないで孤高を貫く真のオリジナルよりも、波紋を広げて遠くまで石を置きに行くというやり方が、とても面白いと思われて好きでした。
その面白さゆえに読解に膨大な労力と、労力を労力で終わらせないだけの感性のひらめきとでもいうものを必要とする研究に挫折したんですけどネー。
それはいいんですが。
知的財産の所有とか、著作権とか、そういうものの必要なこと、それが大事であることは納得がいきます。…うーん、なんとなくだけど。
でも、私はどうやらそこらへんのモラルがごっそり欠けてる人間な気がします。根本的に。
恩田陸か北村薫だったかのお話に、「物語に作者がいるということがわからなかった」というのがありましたが、そーゆーのはすてきだなあとか思ったりするのです。
まあ、あれです。二次創作とかパロディとかパスティーシュとかは面白い!
と、いいたかっただけです。
中東の方へ行くと、イスラム圏だったかしらん。
「物を盗む」「盗まれる」という概念が無くなる。
とかいう話を読んだような記憶があります。物はそこにある物であって、誰かに帰属するようなことはないとか。誰かが所有権を主張するなんてことはできないとか。
うろ覚えなんで違うかもしれませんが。
それで。別に現実の中東がそうでもそうじゃなくてもいいんですが、たとえばそういう世界があったとすると、傘とか、誰かが使用真っ最中じゃない限り、別に持って行っても良心の呵責を覚えたりしないし、さっきまで自分の手元にあったとしても、誰かが持って行って無くなっていたら、「ああ。どっかいったなあ」と思うだけで、腹もたたないのかなと思いました。
しかし私はそんな境地には至れないので、傘とか自転車とか、たとえ自分の不注意で何処かに忘れた物だとしても、誰かが勝手に持って行ったら腹がたちます(笑)。
しかししかし。
傘と歌は違いますよな。…おんなじかなあ…。
どうだろう。
集英社です。恩田陸です。
常野一族をめぐる連作です。光は連作短編、蒲公英とエンドは長編。
どれも面白いです。『光の帝国』が一番すき。
常野一族のパスティーシュがあるはずだと思うの!後で探してみよう。
『光の帝国』の登場人物の話が読みたいわけではなく(いやそれも読みたいけども)、「常野一族」という設定を借りた、面白い能力のお話が読みたいので、つまり恩田さんが書いてくれればそれを読んだらいいんですが(笑)。
早く読みたいから誰か書いてないかなと思って。
一冊目の『光の帝国』が出たのは1997年。古びないのがすごいなあ。
光は文庫を買い直したので、あとがきが読めました。
(前略)その都度違うキャラクターでという浅はかな思い付きを実行したために、手持ちのカードを使いまくる総力戦になってしまった。(中略)「オセロ・ゲーム」や「光の帝国」はもともと独立した長編で考えていたものだし、「達磨山への道」は、四人の少女の神隠しの話のプロローグとなるエピソードとして予定していたものだった。
面白い筈だと思いました。
恩田陸はもともと、かっきり解かれない、きっちり終わらない、そこが気持ち悪くて大好きな作家さんです。ぶよぶよというかぼわぼわというか、そういうものの一部分だけ見えた感じがするの。くらげに火吹き棒突っ込んで覗いてる感じ?
…えーと。
設定された謎がつまんないとか、いくら謎が魅力的でも結局解決してないとか、終わり方が半端だとかいう話は嫌いなんですが、恩田陸は大好き。
上手だからかしら。結局は。
気持ち悪いのが気持ちいい。なんかこう、ぞわぞわするの。
それで、『エンド・ゲーム』のオビが恩田陸にぴったりと思いました。
「終わりの始まり」
うまい。
面白いので、読んでください。なんか思いついたら書いてください。
誰か。
俳諧を一生懸命お勉強したことがあります。そのときの先生という人が、「真にオリジナルなものはない」という主義の人でした。
結構長いことその先生のそばにいたので、感化されました。
俳諧は、五七五の発句に、七七の脇句をつけ、それに五七五をつけ、と、三十七とか百とかまで続けてイメージの移り変わりを楽しむという遊びです。連句ともいいます。
私は連句の解釈がものすごく苦手で、やりたくなかったので、一人の俳諧師の発句だけ集めて読んでいました。連想とか飛躍とかそのものは好きなんですけども、そこに裏打ちを必要とされると途端にたじたじなのです(笑)。
俳諧の発句というのは、それだけ読んでも全然面白くないし、そもそも意味がわかりません。
十七音にできる限りの情報を盛り込むために、作り手も、読み手が当然、先行する作品を知っていて鑑賞するという態度で作るので、作品を通して作者と鑑賞者がつながるためには、先行作品の存在が不可欠です。
どこかにひとつ石が置かれると、誰かが周りに波紋を作り、また違う誰かがそれに輪をかけて波紋を広げ、あちらの小石の波紋と触れる部分があり、こちらの大岩の波紋と重なる部分があり、そんな風にしてしか読めないんです。
「しか」なんて云うと否定的ですが、私はそこが面白くて好きでした。誰とも触れ合わないで孤高を貫く真のオリジナルよりも、波紋を広げて遠くまで石を置きに行くというやり方が、とても面白いと思われて好きでした。
その面白さゆえに読解に膨大な労力と、労力を労力で終わらせないだけの感性のひらめきとでもいうものを必要とする研究に挫折したんですけどネー。
それはいいんですが。
知的財産の所有とか、著作権とか、そういうものの必要なこと、それが大事であることは納得がいきます。…うーん、なんとなくだけど。
でも、私はどうやらそこらへんのモラルがごっそり欠けてる人間な気がします。根本的に。
恩田陸か北村薫だったかのお話に、「物語に作者がいるということがわからなかった」というのがありましたが、そーゆーのはすてきだなあとか思ったりするのです。
まあ、あれです。二次創作とかパロディとかパスティーシュとかは面白い!
と、いいたかっただけです。
中東の方へ行くと、イスラム圏だったかしらん。
「物を盗む」「盗まれる」という概念が無くなる。
とかいう話を読んだような記憶があります。物はそこにある物であって、誰かに帰属するようなことはないとか。誰かが所有権を主張するなんてことはできないとか。
うろ覚えなんで違うかもしれませんが。
それで。別に現実の中東がそうでもそうじゃなくてもいいんですが、たとえばそういう世界があったとすると、傘とか、誰かが使用真っ最中じゃない限り、別に持って行っても良心の呵責を覚えたりしないし、さっきまで自分の手元にあったとしても、誰かが持って行って無くなっていたら、「ああ。どっかいったなあ」と思うだけで、腹もたたないのかなと思いました。
しかし私はそんな境地には至れないので、傘とか自転車とか、たとえ自分の不注意で何処かに忘れた物だとしても、誰かが勝手に持って行ったら腹がたちます(笑)。
しかししかし。
傘と歌は違いますよな。…おんなじかなあ…。
どうだろう。
コメント
『エンド・ゲーム』私は未読。『蒲公英草紙』は泣けたんだけど、常野ものとしては物足りなかった〜。確かに常野一族は能力の種類を考えていけば、連綿と話を書きつづけられるね。『ジョジョの奇妙な冒険』のようだ……。
『ガラスの仮面』が元ネタと噂の『チョコレートコスモス』もまだ未読。早月さん読んで感想書いて下さい(笑)。
早晩読みますv楽しみv
そういえば『三月』にそんなくだりがありましたねぇ…。先輩と夜行で酒盛りするやつだよね。あれあこがれたわあ。
北村薫の「わたし」だったかな、と迷っちゃった。云いそうなんだもの。
『蒲公英草紙』のスタンスは、常野一族のポリシーを考えると正しいのかもなあ、と考えました。読後に。私も、たんすの一族好きだし、きれいで面白かったんだけど、『光の帝国』の後だったから、なんでこれだ??と疑問で、考えてみた。
「達磨山への道」と「手紙」に近い感じなんかな、と。
『エンド・ゲーム』はその点、ばっちり能力ものでしたよ〜。裏返されすぎてきゃーきゃーだったわ。いとうせいこうの『解体屋外伝』みたいな人が出てきたよ。
何か面白い能力を思いついたらおしえてください。妄想するから(笑)。