贋作釣果無鯉草紙 下
2005年10月23日 もらっただけで中を確かめていないので、何が入っていたのか知らない。
守り袋か何かだろうかと思っただけだ。ただその緋が目にひどく鮮やかで、ああ、早く戻ろうと胸の内に呟いたのだった。中身にも、それを己へ渡した娘の怒ったような素っ気無さの意味にも、心は向かわなかった。だから受け取って懐へおさめて、ふいに耳を打った高い囀りに空を仰げば、寒空に似合わぬ暢気な雲の端が陽を受けてきらきらと光る。眩さに目を細めて。
ああ、戻ろう。戻ろうとだけ思った。
「…なんだ、これ」
飾り紐を巻き付けた指先が綺麗だった。絡んだ紐ごと引き寄せて、手の中に握り締めてみたいと思いながら見ていた。
異国には、触れる物すべてを黄金に変える指先を持つ者がいるらしい。逆さにそっと振られた錦袋から転がり出た物をつまみ、目の高さに上げて、訝しげに眉根を寄せている。
「石? …そこらに落ちてるただの石…だな…」
白い指先が触れた途端、黄金に変わるのだと思った。
「三つもある………おい!」
「…ッ、はい?!」
取り留めのない夢想に遊んでいたところを呼ばれて肝を潰した。声がみっともなく引っ繰り返ってしまった。
呼んだ方がかえって驚いたと云いたげに、瞠った眼でひとつ、ぱちりとまばたきされた。
瞬時に赤面する。
「も、申し訳ない…ちょっと、考え事を…」
「いや。えっと…」
「はい」
覚えず姿勢を正しており、正してから気付いて腹の中で苦笑した。
「はい。なんですか」
しかし、くくっと抑えた笑いが後ろから聞こえてきたら、それだけでまた、なのだ。
「なんだ。何がおかしい?」
「…いや?べーつに?」
「別にということがあるか!」
「はてサテ」
「きさまはなんでそういう…ッ」
飾り石より綺麗な眼は己を逸れて行ってしまい、慣れた場所へおさまった。それから喧々、噛み付くのは何にも真剣で懸命なひとの方だけで、柳に風とばかりのらくらかわされている。こうなっては蚊帳の外。
仕方がない、と思った。
己は所詮、玉にまぎれた石である。片や入山形に二ツ星、片や不夜の城に権勢を誇る大籬の主。そこへ太鼓より気の利かない野暮天では、太刀打ちのなんのと息巻くより頭を冷やして、そもそも相手にしてもらえているのかどうかと考えるのが先だ。
―――寂しい。
けれど仕方のないことだった。こうしていられるのさえ夢のようなこと―――と、云い聞かせたそばから腹の底がむかつき始める。
無為で無分別で、馬鹿だった頃には戻りたくない。
拳を握り込んで目を伏せた。
『賢を見てはひとしからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる』
父の声について素読した書物が、別人のよく通る声で沁みるようになった。愚かしいとも女々しいとも知りつつ、そのひとを偲ばせるものに触れていたくて幾年ぶりかで引っ張り出した漢籍を、必死に読んでいるうち、いつしか。
凛とした声に諭されれば瞬時に凪ぐ、他愛ない心。
己は君子ではないと云った、あなたに焦がれている。
「つっかかるなよ」
「きさまがさせてるんだろう!」
「俺がいったい何をしたって?」
「だからその人を馬鹿にしたような態度が礼を欠いているとわたしは」
「…太夫」
紐で絡めて手繰り寄せるように、簡単にいけばいいのにと思う。
「え?」
呼んだらこちらを向いてくれた。笑いかけると、気まずげな顔をした。
「…ああ、悪い。えっと。…なに?」
『君子はたいらかにして蕩々たり。小人はとこしえに戚々たり』
泥水を啜って溜め込んだようなどす黒いものが始終腹の底でぼこりぼこり、泡を作ることはなくなった。かわりに、寂しくなったり切なくなったりする。それでもなんとなし、柔らかに穏やかに居られる気がする。
だからいいのだ。
「それを」
「え?」
「石を。戻してもらっても構いませんか」
「あ…うん」
いつしか握り込んでいた小石三つを慌てて錦袋に戻し、おずおずと上目になった。飾り紐を指に巻き付け、ほどいてはまた、巻き付けて。
―――ああ。わかった。
と、思った。
思って胸の内、もはや顔立ちも声もきれいに記憶から消えてしまった娘へ、詫びた。
受け取ってはいけなかった。しかし今更、返すこともできなくなった。こんな不人情で愚かな男だから、心を掛けても甲斐がない。どこで見初めたか、とんと思いもつかないが、今後会うこともないだろう。野暮天の鈍感、忘れてしまってくれ。
「あの…」
「はい」
「…すまん。本当は大事な物だったのだな。あいつがなんだか軽々しく扱っているから、つい…」
睨むように流れてしまう前に、
「いいえ」
強く云い切る。黒い目がまるく見開かれて留まった。それを確かめて、笑みを浮かべる。
「いいえ」
巻き付けて、ほどいて、の仕草が早くなった。
「そっ…、そう、か…?」
「はい」
―――こいしこいし。君、恋し。
わざとらしく響いた無礼者の吐息の音など、聞こえない。
「縁のあった人に渡されただけのものです。特別なものではありません」
「そう…そうなのか…」
「はい」
「…ともかく、返す…」
紐を絡めたまま差し出された指先をそっと受け取った。
「しかし特別な物になりましたから、これからは大事にします」
「………なんでだ?」
「あなたが触れたから」
まばたきしなくなった眼を見ていた。頬から耳朶へじんわり広がってゆく朱色も。
きれいだと思う。
大仰なしわぶきで我に返り、絡まった紐を解いてその指先が引かれてしまうまで。
ずっと見ていた。
赤い頬を押さえて立ち上がり、「用事を思い出したッ」と一声叫んで行ってしまう背も、ずっと見ていた。
「あーああ!馬鹿馬鹿しいったらありゃしねぇ」
呆れ返った声が、そう云うまで。
「お前さんに惚れた女は、とんだ災難だなァ」
音高く盆に打ち付けられた煙管を柝のように聞いて、錦袋を懐へしまい込んだ。
######
ふたりのために浮世はあるの。
はー、終わったv
いやだ。また全部読んできちゃった(笑)。
つづき、楽しみにしてますvがんばれ親指!
と、そっと呟いておこう。うふふ。
守り袋か何かだろうかと思っただけだ。ただその緋が目にひどく鮮やかで、ああ、早く戻ろうと胸の内に呟いたのだった。中身にも、それを己へ渡した娘の怒ったような素っ気無さの意味にも、心は向かわなかった。だから受け取って懐へおさめて、ふいに耳を打った高い囀りに空を仰げば、寒空に似合わぬ暢気な雲の端が陽を受けてきらきらと光る。眩さに目を細めて。
ああ、戻ろう。戻ろうとだけ思った。
「…なんだ、これ」
飾り紐を巻き付けた指先が綺麗だった。絡んだ紐ごと引き寄せて、手の中に握り締めてみたいと思いながら見ていた。
異国には、触れる物すべてを黄金に変える指先を持つ者がいるらしい。逆さにそっと振られた錦袋から転がり出た物をつまみ、目の高さに上げて、訝しげに眉根を寄せている。
「石? …そこらに落ちてるただの石…だな…」
白い指先が触れた途端、黄金に変わるのだと思った。
「三つもある………おい!」
「…ッ、はい?!」
取り留めのない夢想に遊んでいたところを呼ばれて肝を潰した。声がみっともなく引っ繰り返ってしまった。
呼んだ方がかえって驚いたと云いたげに、瞠った眼でひとつ、ぱちりとまばたきされた。
瞬時に赤面する。
「も、申し訳ない…ちょっと、考え事を…」
「いや。えっと…」
「はい」
覚えず姿勢を正しており、正してから気付いて腹の中で苦笑した。
「はい。なんですか」
しかし、くくっと抑えた笑いが後ろから聞こえてきたら、それだけでまた、なのだ。
「なんだ。何がおかしい?」
「…いや?べーつに?」
「別にということがあるか!」
「はてサテ」
「きさまはなんでそういう…ッ」
飾り石より綺麗な眼は己を逸れて行ってしまい、慣れた場所へおさまった。それから喧々、噛み付くのは何にも真剣で懸命なひとの方だけで、柳に風とばかりのらくらかわされている。こうなっては蚊帳の外。
仕方がない、と思った。
己は所詮、玉にまぎれた石である。片や入山形に二ツ星、片や不夜の城に権勢を誇る大籬の主。そこへ太鼓より気の利かない野暮天では、太刀打ちのなんのと息巻くより頭を冷やして、そもそも相手にしてもらえているのかどうかと考えるのが先だ。
―――寂しい。
けれど仕方のないことだった。こうしていられるのさえ夢のようなこと―――と、云い聞かせたそばから腹の底がむかつき始める。
無為で無分別で、馬鹿だった頃には戻りたくない。
拳を握り込んで目を伏せた。
『賢を見てはひとしからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる』
父の声について素読した書物が、別人のよく通る声で沁みるようになった。愚かしいとも女々しいとも知りつつ、そのひとを偲ばせるものに触れていたくて幾年ぶりかで引っ張り出した漢籍を、必死に読んでいるうち、いつしか。
凛とした声に諭されれば瞬時に凪ぐ、他愛ない心。
己は君子ではないと云った、あなたに焦がれている。
「つっかかるなよ」
「きさまがさせてるんだろう!」
「俺がいったい何をしたって?」
「だからその人を馬鹿にしたような態度が礼を欠いているとわたしは」
「…太夫」
紐で絡めて手繰り寄せるように、簡単にいけばいいのにと思う。
「え?」
呼んだらこちらを向いてくれた。笑いかけると、気まずげな顔をした。
「…ああ、悪い。えっと。…なに?」
『君子はたいらかにして蕩々たり。小人はとこしえに戚々たり』
泥水を啜って溜め込んだようなどす黒いものが始終腹の底でぼこりぼこり、泡を作ることはなくなった。かわりに、寂しくなったり切なくなったりする。それでもなんとなし、柔らかに穏やかに居られる気がする。
だからいいのだ。
「それを」
「え?」
「石を。戻してもらっても構いませんか」
「あ…うん」
いつしか握り込んでいた小石三つを慌てて錦袋に戻し、おずおずと上目になった。飾り紐を指に巻き付け、ほどいてはまた、巻き付けて。
―――ああ。わかった。
と、思った。
思って胸の内、もはや顔立ちも声もきれいに記憶から消えてしまった娘へ、詫びた。
受け取ってはいけなかった。しかし今更、返すこともできなくなった。こんな不人情で愚かな男だから、心を掛けても甲斐がない。どこで見初めたか、とんと思いもつかないが、今後会うこともないだろう。野暮天の鈍感、忘れてしまってくれ。
「あの…」
「はい」
「…すまん。本当は大事な物だったのだな。あいつがなんだか軽々しく扱っているから、つい…」
睨むように流れてしまう前に、
「いいえ」
強く云い切る。黒い目がまるく見開かれて留まった。それを確かめて、笑みを浮かべる。
「いいえ」
巻き付けて、ほどいて、の仕草が早くなった。
「そっ…、そう、か…?」
「はい」
―――こいしこいし。君、恋し。
わざとらしく響いた無礼者の吐息の音など、聞こえない。
「縁のあった人に渡されただけのものです。特別なものではありません」
「そう…そうなのか…」
「はい」
「…ともかく、返す…」
紐を絡めたまま差し出された指先をそっと受け取った。
「しかし特別な物になりましたから、これからは大事にします」
「………なんでだ?」
「あなたが触れたから」
まばたきしなくなった眼を見ていた。頬から耳朶へじんわり広がってゆく朱色も。
きれいだと思う。
大仰なしわぶきで我に返り、絡まった紐を解いてその指先が引かれてしまうまで。
ずっと見ていた。
赤い頬を押さえて立ち上がり、「用事を思い出したッ」と一声叫んで行ってしまう背も、ずっと見ていた。
「あーああ!馬鹿馬鹿しいったらありゃしねぇ」
呆れ返った声が、そう云うまで。
「お前さんに惚れた女は、とんだ災難だなァ」
音高く盆に打ち付けられた煙管を柝のように聞いて、錦袋を懐へしまい込んだ。
######
ふたりのために浮世はあるの。
はー、終わったv
いやだ。また全部読んできちゃった(笑)。
つづき、楽しみにしてますvがんばれ親指!
と、そっと呟いておこう。うふふ。
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