怒り心頭に発していることは確実である。なんの解決策も見当たらないままに艦橋へと向かおうとしていたアレクセイ・タマロフは、それを見た瞬間覚悟を決めた。
「グッド・イブニング、サー!」
 暴走列車もかくやという勢いで通路を進んで来たシーフォートだった。が、両腕を広げ、両足を踏ん張り、自らの体を張ってでもという意思のみなぎるタマロフに目の前に飛び出されて、そんな風に進路を阻まれれば、さすがに止まらざるを得ない。何やら引きつった顔に必死の笑顔を浮かべる候補生の目前で、ぴたりと両足を揃えると、止まった。
「いい夜ですね!」
 叫ぶように言うタマロフのこめかみを、一筋の汗が伝う。シーフォートは腕を組む。顎を上げ、目前の障害物を全身眺め渡すと、ひとつ、鼻を鳴らした。
「グッド・イブニング、ミスタ・タマロフ。残念ながらわたしはそうは思わない」
 タマロフの額からふた筋の汗が流れ出た。
「それは残念です!とても残念だとわたしは思います、サー!」
「ああ。わたしもそう思う」
「ええ!実に残念なことですとも!」
「きみと意見の一致をみられて嬉しいよ、アレクセイ」
 シーフォートはタマロフの両目にぴたりと視線を据えて、口角を両方ともはっきり持ち上げた。
「では、どきたまえ」
「ささささ、サー!キャプテン・シーフォート!」
「なんだ? まだ何か?」
 ぎろりとやると、タマロフを流れる汗の量が目に見えて増した。体は強張ってがちがちである。肩が小刻みに震えている。顔色が悪い。そんな風なのにシーフォートを通せんぼした格好を崩そうとはせず、引きつる口元に必死で笑顔を保って和やかなムードを作り出そうとしている姿は健気ですらあった。 シーフォートは少しだけ目つきを和らげた。
「アレクセイ」
「イエス・サー!わたしはわたしは、ッただ!あなたともう少しお話がしたいと思っ」
「アレクセイ」
「イエス!だからわたしは」
「アレクセイ、よせ。無駄だ。候補生室から艦橋への通り道はここだけだ。きみが時間稼ぎをしたって、もう、ヴァクスはおれの目を逃れることはできないよ」
「いッ、イエス、いえ、ノー、ええと、」
「それともヴァクスは候補生室には居ないのか? なら、どこに居るのか教えてくれ。おれはそこへ行く」
「ああ…!」
 タマロフはようやく広げていた腕を下ろすと、がっくりうなだれた。シーフォートは彼がかわいそうになった。
「アレク、きみは別に悪くないだろう。そんなに落胆するなよ」
「ええ…はい…サンキュー・サー…」
 呟いた様子があまりに打ちひしがれて見えて、シーフォートは苦笑した。いつでも溌剌としたアレクセイ・タマロフが、こんなにしょんぼりするなんて。
 ホルサーのために。
 シーフォートはちょっと考えた。
「ヴァクスは体の具合でも悪いのか? それならそうと言ってくれれば、わたしだって」
「違うんです、ミスタ・シーフォート」
 艦長の発言を遮る不敬にも思い至らぬほど、タマロフは意気消沈していたようだ。だからシーフォートは少々眉をひそめただけで、彼をとがめるのはよした。
 タマロフが深い吐息を漏らす。
「よく、わからないんです。わからないから、ぼくも困っています」
「わからない? …何が?」
 首をかしげたシーフォートを、タマロフがすがるような目で見つめる。
「彼の当直シフトが30分前に始まっていることを、我々だって知っていました。なのに一向に艦橋に向かう様子もないので、不安になって訊いてみたんです」
「それで?」
「ヴァクスは何も話してくれません」
 タマロフがあまりにも必死だったからだ。シーフォートは任務をさぼった不真面目な候補生に対する怒りが薄れていくのを感じた。
「アレクセイ」
「ミスタ・シーフォート、お願いです!」
 声の調子にも表情にも、誠実さばかりが表れていた。心底仲間を思いやる気持ちだけが。これを見れば先任士官候補生が、日頃どんな風に候補生室を治めているのかわかろうというものだ。シーフォートはほほ笑んで、安心させるようにタマロフの腕に触れた。
「アレク、わたしに最後まで話させてくれよ」
「そッソリー・サー!!」
 タマロフは真っ赤になって後ろへ飛び退った。
「ああ、いいんだ」
「ソリー・サー」
「そんな顔をするなよ」
 笑みを向けてやる。タマロフは泣きそうにゆがめた顔を、ちょっとゆるめた。
「では、ヴァクスは候補生室に居るんだな?」
「イエス・サー」
「そして、当直をうっかり忘れたというわけでもない」
「…イエス・サー。でも」
「でも、はナシだ、アレクセイ。それではこれは明確な意思を持ってなされたサボタージュだ。わたしには原因を知る義務がある。あと、権利と」
「イエス…サー…おっしゃる通りです…」
 艦橋のハッチを飛び出して来た時にはぐつぐつ煮えくり返っていた腸は、今や完全にさめてしまっていた。ただ何故なのだろうと考えながら、シーフォートは組んでいた腕をほどいた。
「なんでそんなことをするんだろう?」
「わからないんです、サー」
 タマロフは先に自分で言ったように、ただ、困惑している。
「…わたしにはそんな風に見えなかったが…、ヴァクスは任務に対する不満をきみたちにぶちまけたり、ああ、いや、いい」
 部下に、仲間を密告するような真似はさせるべきではない。シーフォートはそれに思い至り、自分の失敗に顔をしかめた。が、タマロフは気にせず、首を横に振った。
「我々は団結しています。みんな同じ気持ちなのです。サー、あなたもご存知のように、見習生も含めて候補生全員が、役に立ちたいと思っているのです、その」
 タマロフはそこでかすかに顔を赤らめた。
「あなたの」
「だとするとなんなんだ? 理由もなしに任務をさぼるなんて、許されることではない」
「イエス・サー」
「しかし、ヴァクスがそんなことをするとも思えない。それを我々は知っている」
「そうなんです、サー」
「特に不満があるわけでもないのなら…なんでだ?わたしに対する抗議行動か何かか?」
 呟きに、タマロフは賢明にも口をつぐんで対処した。シーフォートはそのまましばし考えていたが、うまい考えは微塵も浮かばなかった。首を振って考えるのをやめる。
「とにかく。ヴァクスに会ってこよう。訊いてみればはっきりするだろう」
「では、彼に弁明の機会を与えて下さるんですね」
 タマロフはほっと息を吐いた。
「そうだな」
 シーフォートは難しい顔をすることしかできなかった。
 自信などというものは、いつでもシーフォートから遠く離れた場所にある。何かあるたびすぐに浮かぶのだ。そもそも自分は<ハイバーニア>の艦長にふさわしいのか?
「…それとも、わたしに対する告発の機会を…」
「なんですか?」
 聞き逃したタマロフが不思議そうに見つめてくる。シーフォートはタマロフをすり抜けた。
「いや…」
 候補生室へ向かう。
 シーフォートに不満を持ち、それを堂々と表に出していい者が存在するのならば、それはヴァクス・ホルサーだと思えた。法規に照らせばホルサーの行為に弁明の余地はない。しかし、ホルサーに言い分があるのならば聞きたかった。こんな方法を使ってまで言いたいことがあるのならなおさら、自分は聞くべきなのだと思った。たとえそれがいくら耳に痛い諫言であろうとも。不満であろうとも。
 彼が口にするならそれは真実だ。

 怒りに任せて真っ直ぐに進んでいた時とは違う重苦しい雰囲気を纏ったシーフォートを、近寄りがたいことでは同じだと感じながら、タマロフは黙って見送った。

######

ああ、艦長書くの楽しいなあ。艦長書くのが一番すきだ。

コメント