「お先に」

 ――――そわそわしてた。
 …いや。イライラ、かな。

「え?」
「お先に失礼しますよ、ミスタ・ロヴェール」
「え…?! おわ、終わったのか? オレ、まだなんだけど…」
「頑張って下さい」
「いや、だから、ちょ、ミスタ・トリヴァー! オレ、まだ終わってません!」
「頑張れよ、ロビー」
 最低限の自分の割り当てをすませたら、他人のものまでかまってはいられないらしい。晴れやかにほほ笑まれ、肩を叩かれて、諦めの滲んだ胸でうな垂れた。
「オレなんかの力では、とうてい今日中に終わらせられるとは思えないんですけど…」
 それでもちらりと見上げてみる。
 笑っていた。
「きみは努力家だ。士官学校時代から。尊敬するよ、ロビー」
 …ああ。
「頑張ってくれ」
 ちくしょう。
「…いいですよ…雨降ってるし、傘無いし、タクシー拾う金もないし、帰ったって誰かが待っててくれるわけでもないし、もう、泊まっちまったらいっそ、ラクだよな、とか思ってたんでね…はは…ちょうど良かったな…ははは、は…」
 乾いた笑いの効果だろうか。さっさと出口へ向かいかけた男は、足を止めてこちらを見た。
「希望を置いてってやるよ、ロビー」
 意地の悪い分隊長は黒い傘を壁に立てかけた。
「今日中には無理でも、一旦は帰れよ。明日はシャワーくらい浴びたきみと会いたいものだ」
 にやりと笑い、ひらひら掌を振る。
 と、後ろ髪を引かれる素振りもなく、あっさり出て行った。
 やっぱり手伝ってくれるんだな、なんだかんだ云って面倒見がいいんだ、トリヴァー分隊長は!
「…くそう」
 希望、なんて云うから、一瞬向けた好意。すぐさまそれは行き場をなくし、どさりと倒れこんだ事務椅子の背が、きぃと不満を鳴いた。

 ――――なんだか上の空だった。
 …ような…?

 独り者の妄想か僻みかな。
 それでも、あの男には『待ち人』の気配がある。待っているのか待たせているのか、そこまではわからない。
 雨はただ、単調に降り続いていた。
 灰色の水の中、ガラス越しに、濡れそぼって黒く見える人影。
 藍の制服が近付くのを見る。

「…………」

 傘、持って行けば良かったのに。
 待ちぼうけを喰らったあの宙尉は、そんな好意は受けないだろうか。
 だからかな。
「…………あの人絶対カノジョ居るよなー。いいよなあ…。ちくしょう」
 他人に親切にできるのは、結局自分が幸せだからだ。
 オレは任務がコイビト。
「………〜〜ッてェッ、…かっこつかねぇや…」
 せめてそれが、かつての寝台仲間のような任務だったら。
 けれどそれは、願ってはいけないことだった。
 ヨールが足りないと云われても。
 ニックの宙尉は、生きて戻れて良かった。
 待っていた誰かは、彼をすっぽかしたのかもしれない。
 けれどオレたちの分隊長は意外とお節介なので、せめても、冷たい戸外に立ちっぱなしで、諦めるきっかけをなくしていた彼には、いいきっかけになったことだろう。

「…仕事、しよ」

 雨は降り続く。
 濡れそぼった男の姿は、今はそこにはなかった。

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