邂逅。

2003年11月15日
 ――――頼む。
 ひと言。そしてじろりと一瞥。人にものを頼む態度ではない。
 慶次郎は下を向いてくッと笑った。
 ――――なんで傾(かぶ)いておられた、又左叔父?
 所詮若気の至りよとでも返って来たら、慶次郎は全部ぶち壊してやる衝動をおさえられないおのれに自信があった。
 又左叔父、即ち槍の又左衛門、前田利家はキョトンとした。
 ――――慶次、わしはなんで今こんな、おびえておるのかな。
 畳へ両掌の指をぴったりそろえて平伏した。
「おおせのままに」

 天正十四年、金沢にも夏がやって来る。ついでに客がやって来るとか。
「つまらんなぁ…」
 慶次郎は自主的に謹慎していた。利家に騒ぎを起こさないでくれと頼まれたからである。おのれの在る所、望むと望まざるとに関わらず騒ぎはつきものなので、四、五日間のことだ。ならば屋敷に引っ込んでおるのが無難だと思ったからである。
 猿に怖いくらい似た小男が、天下とやらを取るらしい。春頃から京に、大層な屋敷を建てさせている。信長亡き後の世の趨勢を横目で睨みつつ権謀術数に余念のなかった大名らが、秀吉たらいう名前の猿に頭を下げに京へ行く。独立を保って同等の立場で同盟を結ぶ戦乱の世ではなくなるのだ。今は猿の前に平伏し、臣下の礼を取るのみである。
「つまらんなぁ」
 慶次郎は筆を置いて、ごろりと横になった。武田は滅びた。柴田も死んだ。四国、越中を平らげ、あとは九州、関東、奥州、そのくらいか。島津は勝つだろうか。
「勝たんだろうなぁ」
 四国の長宗我部が先鋒を果たすだろうから…云々。慶次郎は頭に地図を書いて、その上で猿を舞わせてみた。勝つ必要はない。ただ不羈の者なら、快哉を叫んで心中愉しく思うだけである。こんな慶次郎であるので、他者を従わせようという天下人とやらは好きではないし、そいつに会いに上洛するやつらも好きではない。
 と、いうことは知られているから、利家に釘をさされたのだ。北越の大藩、武門の誉れ、戦国乱世にあって正義の戦(いくさ)を貫いた軍団――――。
「つまらん世の中だよな」
 その上杉が上洛すると言う。加賀を通るので金沢城で、利家らが出迎える。秀吉の懐刀、石田三成とか言う御仁も既に城下に入った筈だが、この一切に関わるなという釘だと理解した慶次郎は、籠もっておとなしくしているから見られなかった。
 上杉の当主は三十二だと言う。五つ年下の面白気な男が参謀として控えていると言う。会ったら訊いてみたかった。天下取りの野心を以て、機をうかがうための上洛なのか? 本当に秀吉に屈したのか。お家の安泰を図るための方便か。なんでもいいが。
 頭を下げて命が買えるなら、いくたびでもそうするのか。
「安っぽい」
 安くて軽い命だ。何をされても傷などつかないぶよぶよと腐った、醜い心の在り方だ。みっとも良くはない。
「…俺がな」
 慶次郎は太い息を吐いた。
 天衣無縫を愛して奔放に日を暮らしたいと望むおのれが、叔父のひと言でこうしてお籠もりだ。みっとも良くはない。禄をいただく主だからと言うのではない。そんな者の命なら、気に喰わねば従わない。慶次郎はおのれと同じ生来の叔父が、いろんなものにがんじがらめになってしまっているのが哀れだった。閉じ込められたら出られるまで、死んでも暴れまわる筈の傾奇者の心に生まれついて、巧妙に手足を絡め取られたことに気づけていない又左叔父がかわいそうだった。俺もああして駄目になってゆくのだろうかと思った。背筋がゾッとした。
 たわめられたまま生きてはおられぬと思う。
 曲がって歪んだおのれになんか、耐えたくないと思う。
 誰かに額づかねば保てない命ならいらない。
 醜く足掻くのが人であろう。泥水をすすり、お情けをかけられても生き延びるのが大事であろう。我を張るばかりでは世を渡っては行けぬだろう。時には、頭一つ下げて解決する問題なら、容易くそうするのがいいんだろう。おのれが悪くなくとも、謝罪すれば丸く収まるのだろう。
 知っていて慶次郎は、ならば俺は馬鹿者でいいと思った。愚かな道化でいい。滅びを見据えたまま、頭を上げて正面を睨み、死ぬのがいい。
「つまらんなぁ…」
 気鬱は散じねば病の元だ。
 慶次郎は馬を駆って出かけた。この鬱屈を腹の底へためてゆけば、いくら哀しくて愛しいと思う叔父の言葉にも、絶対に従えはしない日が来るだろう。確信をただ薄めようとだけ思い、馬をせめた。

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