直江三昧ウィーク。
2003年11月14日『無間浄土』まで読んで、景虎様から離れていた方がいいわよ貴方と信綱氏に哀れみを覚えつつ、サービスシーンがだんだん重くなっていく現実に耐えられないアタシ…(涙)(その認識おかしいから)。
ところで矢張り小太郎だね(目が据わってる)。
兼続さまファンサイトを回り(びっくり。そんなものがある)、直江状を音読してうっとりしたりして頭が直江。
しかし片隅に、あの男の笑顔がある。天下の傾奇者前田慶次郎利太。慶次郎のファンサイトもあったわ。びっくりびっくり。蛇の道はヘビたら云うものか。
例によって慶次郎と兼続さまの複合年譜を作成したが、その時、驚異的なことに気付く。慶次郎は概ね天文10年(1541) 生まれとされ、兼続さまは永禄3年(1560)の生まれなので、年の差19!!
うわー。いやだー。知らなかった。19…19…それはちょっとどうだろう…。48の男が29の若僧にぞっこん惚れ込む…あんまり美しくないような…。
■天正11年(1583)
…利家、利久に七千石を与える。利久、内五千石を慶次郎《43》に分かつ。
…兼続《24》この年より「山城守」を称すか。
とか書いていると、ほとんどお父さんだわ。ヤだわ。
■慶長5年(1600)
…兼続《41》神指原新城築城総監。3/13謙信23回忌法要。9/29西軍の敗報米沢に伝わる。
…慶次郎《60》最上・伊達連合軍を相手に華々しい戦果を挙げる。
ああ。しかしなんかこの頃になるともうどうでも良くなるんだけど(笑)。
思ったのですが。
兼続さまは生没年動かせませんが、慶次郎はほとんど伝説の人なので別にいつ生まれていつ死んでも構わないような気がする。やってることって唄って踊って遊んでるだけだし。時々戦っているが。
「慶次郎は信長の家臣滝川左近将監一益のいとこ儀太夫益氏の庶子。母が利家の兄利久と結婚したので養子となった。利久の弟の五郎兵衛安勝の娘と配し前田姓を名乗った。義父利久と共に信長に仕えた」
と云う説が好きなのですが、利久の実子にして利久が荒子城主を継いだ永禄3年の生まれにしたらどうかしら。祖父さんが死んで親父が城主になって跡継ぎが生まれたってなんか目出度くてよろしいかと(え)。
それだと兼続さまと同い年でいられるのよ〜v(こっちが目的)
てゆーと、「だったらいいな年譜」はこうなるのね。
■永禄10年(1567)
…10月、利久、信長の命により前田家督を利家に譲り、慶次郎《8》家族に伴われ放浪生活へ。この際、慶次郎の母は荒子城及び利家を呪う。巫女を呼んで呪詛したらしい。流石だ。
■天正11年(1583)
…秀吉、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る。勝家北の庄城で自刃。
…兼続《24》三成に出会う。景勝、柴田の援軍依頼に応じず。秀吉の命を受けた三成より柴田軍の後方攪乱を依頼さる。この頃新発田重家の反乱等上杉家中の混乱があったこと及び秀吉が勝家を素早く破りすぎたため、秀吉の依頼にも結果として応じず。
…利久と利家和解。利家は初め勝家方、後秀吉の加賀討伐の先陣をつとめる。その報酬もあり旧領能登に加え加賀二郡を加増。能登安堵は娘を人身御供に差し出したためとか云われているけど。娘も父のためになれて本望であるよきっと。利久に七千石を与える。利久、内五千石を慶次郎《24》に分かつ。
■天正13年(1585)
…慶次郎《26》六千石で越中射水郡阿尾城の主となる。父は引退したのかな。
…夏頃、越水の会か。秀吉が越中の佐々成政を討伐した後、越後・越中国境の墜水(落水、越水)で秀吉と景勝の会見アリ。三成と兼続《26》も出席したという。『上杉三代日記』等に記述があるものの史実ではないとの説アリ。この時三成が頼んで兼続と義兄弟の契りを交わしたという小説を読んだ(妄想肥大)。
…7月、秀吉関白宣下。
■天正14年(1586)
…5月、兼続《27》景勝に従い初上洛。景勝一行が金沢城の前田利家の歓待を受けるが、三成は景勝一行を出迎えるため金沢城に赴き利家と共に景勝らを迎えると云われる。伏見で上杉屋敷と三成の屋敷はごく近かったと云う。ご近所か。三成が自分ちの近くに屋敷を建てさせたのだとしか思われませぬな。
…6月、景勝、大阪城で秀吉と会見。数日後、従四位下左近衛少将に任ぜられる。
…12月、秀吉太政大臣に。豊臣新興。
■天正15年(1587)
…2月、聚楽第竣工。秀吉、2月5日公家の歳首を受ける。
…3月、秀吉九州出陣。利家も出陣。慶次郎《28》加賀留守居を命じられて拗ねていただろう。
…8月14日、利久没。
…9月13日、秀吉聚楽第入居。10月北野大茶会。
…10月、新発田城攻略。新発田重家自刃。三成は激励のため、兼続《28》に鉄砲三丁を贈った。もっとやったらいいのに。
…11月1日、慶次郎、利家《51》を水風呂へぶちこんで金沢出奔。ヒドイ。松風(馬)に乗って京へ行く。
■天正16年(1588)
…4月14日〜18日、聚楽第へ後陽成帝御幸。
…4月、景勝&兼続《29》再上洛。
…5月、景勝、従三位に任じられる。
…8月、兼続、従五位下に叙され、豊臣姓を許される。あの人ホントは豊臣山城守兼続と云うらしい。へー。南化和尚から『古文真宝抄』二十三巻(二十巻説アリ)を借りて筆写。漢詩文集。
…8月下旬、景勝&兼続帰国。
ここにねー、「慶次郎《29》兼続に出会う」という一行を入れたいのー。
ああヤだ。無駄な作業ってなんでこんなに楽しいんだろう(笑)。
それにしても三成の動向が不審だ。兼続さまの曲がりなりにもお友達だと思い込んだので、兼続さまに不利になることだけはしないと私が思いたいと、この後時々不審なのです(思い込みを外してはどうか)。
三成さんてば兼続さまと同い年なのよ。景勝公は兼続さまの5歳上。
アタシなんとなく、景勝公の方が下だと思っていた。景虎&信綱は主が下よね。
景勝公は意外とぶっ飛んだお方で、慶次郎が秀吉の前で猿の真似をしながら列席諸侯の膝の上を乗り移り乗り移りして喜んでいた時、俺に乗ったら刺してやろうと思って脇差を抜いて構えていたという逸話があった。素敵な人だ。何を考えているのだろう。「俺の膝は与六のためにだけ…(それを云うなら菊だろうッ?!)」※お菊さん=信玄の五女で景勝公の嫁
え、えーと。
慶長7年(1602)が楽しいです。上杉の米沢減封直後の忙しく暗い時ですが、2月27日、兼続《42》主催で亀岡大聖寺文殊堂において詩歌の会が催されている。のんきだなぁ。景勝&兼続は文禄1年文禄の役で釜山へ渡韓した折も、翌年正月10日には陣中連歌会なんかやってましたけど。何しに行ったか…。いつでも余裕がおありです。素晴らしいことです。
詩歌百首を奉納しています。兼続さまは七首の漢詩を詠じているのですが、慶次郎は和歌を五首。
ほっほっほっほっほ。なんか二人とも、らしくて良いわ。
この年譜遊びはもうちょっと遊べそうです。うふふ♪
ところで矢張り小太郎だね(目が据わってる)。
兼続さまファンサイトを回り(びっくり。そんなものがある)、直江状を音読してうっとりしたりして頭が直江。
しかし片隅に、あの男の笑顔がある。天下の傾奇者前田慶次郎利太。慶次郎のファンサイトもあったわ。びっくりびっくり。蛇の道はヘビたら云うものか。
例によって慶次郎と兼続さまの複合年譜を作成したが、その時、驚異的なことに気付く。慶次郎は概ね天文10年(1541) 生まれとされ、兼続さまは永禄3年(1560)の生まれなので、年の差19!!
うわー。いやだー。知らなかった。19…19…それはちょっとどうだろう…。48の男が29の若僧にぞっこん惚れ込む…あんまり美しくないような…。
■天正11年(1583)
…利家、利久に七千石を与える。利久、内五千石を慶次郎《43》に分かつ。
…兼続《24》この年より「山城守」を称すか。
とか書いていると、ほとんどお父さんだわ。ヤだわ。
■慶長5年(1600)
…兼続《41》神指原新城築城総監。3/13謙信23回忌法要。9/29西軍の敗報米沢に伝わる。
…慶次郎《60》最上・伊達連合軍を相手に華々しい戦果を挙げる。
ああ。しかしなんかこの頃になるともうどうでも良くなるんだけど(笑)。
思ったのですが。
兼続さまは生没年動かせませんが、慶次郎はほとんど伝説の人なので別にいつ生まれていつ死んでも構わないような気がする。やってることって唄って踊って遊んでるだけだし。時々戦っているが。
「慶次郎は信長の家臣滝川左近将監一益のいとこ儀太夫益氏の庶子。母が利家の兄利久と結婚したので養子となった。利久の弟の五郎兵衛安勝の娘と配し前田姓を名乗った。義父利久と共に信長に仕えた」
と云う説が好きなのですが、利久の実子にして利久が荒子城主を継いだ永禄3年の生まれにしたらどうかしら。祖父さんが死んで親父が城主になって跡継ぎが生まれたってなんか目出度くてよろしいかと(え)。
それだと兼続さまと同い年でいられるのよ〜v(こっちが目的)
てゆーと、「だったらいいな年譜」はこうなるのね。
■永禄10年(1567)
…10月、利久、信長の命により前田家督を利家に譲り、慶次郎《8》家族に伴われ放浪生活へ。この際、慶次郎の母は荒子城及び利家を呪う。巫女を呼んで呪詛したらしい。流石だ。
■天正11年(1583)
…秀吉、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る。勝家北の庄城で自刃。
…兼続《24》三成に出会う。景勝、柴田の援軍依頼に応じず。秀吉の命を受けた三成より柴田軍の後方攪乱を依頼さる。この頃新発田重家の反乱等上杉家中の混乱があったこと及び秀吉が勝家を素早く破りすぎたため、秀吉の依頼にも結果として応じず。
…利久と利家和解。利家は初め勝家方、後秀吉の加賀討伐の先陣をつとめる。その報酬もあり旧領能登に加え加賀二郡を加増。能登安堵は娘を人身御供に差し出したためとか云われているけど。娘も父のためになれて本望であるよきっと。利久に七千石を与える。利久、内五千石を慶次郎《24》に分かつ。
■天正13年(1585)
…慶次郎《26》六千石で越中射水郡阿尾城の主となる。父は引退したのかな。
…夏頃、越水の会か。秀吉が越中の佐々成政を討伐した後、越後・越中国境の墜水(落水、越水)で秀吉と景勝の会見アリ。三成と兼続《26》も出席したという。『上杉三代日記』等に記述があるものの史実ではないとの説アリ。この時三成が頼んで兼続と義兄弟の契りを交わしたという小説を読んだ(妄想肥大)。
…7月、秀吉関白宣下。
■天正14年(1586)
…5月、兼続《27》景勝に従い初上洛。景勝一行が金沢城の前田利家の歓待を受けるが、三成は景勝一行を出迎えるため金沢城に赴き利家と共に景勝らを迎えると云われる。伏見で上杉屋敷と三成の屋敷はごく近かったと云う。ご近所か。三成が自分ちの近くに屋敷を建てさせたのだとしか思われませぬな。
…6月、景勝、大阪城で秀吉と会見。数日後、従四位下左近衛少将に任ぜられる。
…12月、秀吉太政大臣に。豊臣新興。
■天正15年(1587)
…2月、聚楽第竣工。秀吉、2月5日公家の歳首を受ける。
…3月、秀吉九州出陣。利家も出陣。慶次郎《28》加賀留守居を命じられて拗ねていただろう。
…8月14日、利久没。
…9月13日、秀吉聚楽第入居。10月北野大茶会。
…10月、新発田城攻略。新発田重家自刃。三成は激励のため、兼続《28》に鉄砲三丁を贈った。もっとやったらいいのに。
…11月1日、慶次郎、利家《51》を水風呂へぶちこんで金沢出奔。ヒドイ。松風(馬)に乗って京へ行く。
■天正16年(1588)
…4月14日〜18日、聚楽第へ後陽成帝御幸。
…4月、景勝&兼続《29》再上洛。
…5月、景勝、従三位に任じられる。
…8月、兼続、従五位下に叙され、豊臣姓を許される。あの人ホントは豊臣山城守兼続と云うらしい。へー。南化和尚から『古文真宝抄』二十三巻(二十巻説アリ)を借りて筆写。漢詩文集。
…8月下旬、景勝&兼続帰国。
ここにねー、「慶次郎《29》兼続に出会う」という一行を入れたいのー。
ああヤだ。無駄な作業ってなんでこんなに楽しいんだろう(笑)。
それにしても三成の動向が不審だ。兼続さまの曲がりなりにもお友達だと思い込んだので、兼続さまに不利になることだけはしないと私が思いたいと、この後時々不審なのです(思い込みを外してはどうか)。
三成さんてば兼続さまと同い年なのよ。景勝公は兼続さまの5歳上。
アタシなんとなく、景勝公の方が下だと思っていた。景虎&信綱は主が下よね。
景勝公は意外とぶっ飛んだお方で、慶次郎が秀吉の前で猿の真似をしながら列席諸侯の膝の上を乗り移り乗り移りして喜んでいた時、俺に乗ったら刺してやろうと思って脇差を抜いて構えていたという逸話があった。素敵な人だ。何を考えているのだろう。「俺の膝は与六のためにだけ…(それを云うなら菊だろうッ?!)」※お菊さん=信玄の五女で景勝公の嫁
え、えーと。
慶長7年(1602)が楽しいです。上杉の米沢減封直後の忙しく暗い時ですが、2月27日、兼続《42》主催で亀岡大聖寺文殊堂において詩歌の会が催されている。のんきだなぁ。景勝&兼続は文禄1年文禄の役で釜山へ渡韓した折も、翌年正月10日には陣中連歌会なんかやってましたけど。何しに行ったか…。いつでも余裕がおありです。素晴らしいことです。
詩歌百首を奉納しています。兼続さまは七首の漢詩を詠じているのですが、慶次郎は和歌を五首。
ほっほっほっほっほ。なんか二人とも、らしくて良いわ。
この年譜遊びはもうちょっと遊べそうです。うふふ♪
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